白だしに全部持ってかれた

 

コロナの影響もありバイトちゃんな私はほとんどシフトを入れて貰えなくなってしまった

昨日も今日もお休みで明日は半日シフト、明後日 明明後日 その次の日もまたお休み…

あれ?これ来月のお給料大丈夫かな

実は年金の滞納が3ヶ月になった あはは 遂に支払い請求の電話がかかってくる始末 笑い事ではない

ひと月1万7000円弱の年金、はした金とはとても言えない  給料が安定しない私にはちょっと払うのが怖くて仕方ないレベルのお金である 家財没収は避けたいので勇気をだして払おうと 常に支払い用紙(コンビニ払い)は鞄に入れているがシワが増えていくばかりでなんとも痛ましい

私は会社のため!お客様のため!と日々一人相撲をして自分の融通の効かなさに泣きを見ている滑稽な人なのだが これがなんとも仕事人間なもので1日仕事を休むと不安になり 休みが続くとたまの仕事がとてつもなく辛くなり 休みの日には寝込んでしまう始末

猫がちょっと段差を降りる音で目が覚め 夫が身動ぎさる音で目が覚めるような日々 夜から朝まで毎時間毎に記憶がある 所謂かるい不眠といったところか

今日は日中しっかり休んだおかげか夜は少し身体が軽く気晴らしにホットミルクでも…とキッチンに上がってきたところ まずは最近買ってもらったお気に入りの黒猫マグカップを探すこと数分、冷蔵庫を開けると上手く蓋が閉まっていなかったのか 扉部分に付いているポケット(牛乳とか入れるとこって言って伝わる?)に入っている醤油やらだしやらドレッシングやら牛乳パックが 白だしでびっちゃびちゃなもんで それをメガネをかけてないぼやぼやした視界で部品を取り外して全部の瓶やらなんやらを拭き 元に戻すまで15分、、もはや何をしにキッチンに来たのかわからなくなりそうだった

そんなこんなで冷蔵庫と机を行ったり来たりを繰り返す牛乳をまた取り出してなんとかホットミルクを作って レンジが頑張ってる間に久しぶりにブログなんて書こうかなと手始めに下書きを覗いたら 遂半年ちょっと前の前職場についてまぁつらつらつらつらつらつら書かれたもん見つけちゃって読みふけってしまった  そういえばそんなことあったな

辛さがある一線を越えると急に忘れるタイプである

正直 前職場の店の名前すら危うい 今はギリギリ言える だってさっき記憶ごっそり見るみたいなことしたし

これ書いた当時は身バレするのでは?とか思ってずっと下書きに埋めてたけど別に身バレするようなこと書いてない気がするからシレッと公開しようかなと思います うん あの頃の私にはちょっと報われて欲しいものがある

 

なっがい前置きと次の記事に対しての宣伝はそのくらいにしておいて 今日はちょっと最近仕事以外であった微妙な話を聞いてほしい

最近 花粉始まったよね、絶対始まったよね 急に来たよね おっきいの来たと思う

鼻水は止まらないわ 痰は絡んで誤嚥性肺炎なりかけのご年配みたいな咳はするわ くしゃみはうるさいでかい、喉痛める のコンボコンボでもううんざり 挙句微熱まで出始めて 遂に…コロナか…!?と思うも 花粉症だな と冷静にアレルギー科のある耳鼻科に行きました

それでもまだなんか諦めきれない私は風邪かと思った!と正直に言えば "もうすっごい(アレルギー性)鼻炎 " つまり花粉症、と太鼓判を押されて しっかり鼻吸引して帰りました 薬の効き目は微妙

その耳鼻科 聴力のこともちょっと面倒みてもらってて 閉鎖的な空間での聴力検査と結果への不安とかからあまり検査をしたくないという私の患者らしくない希望にそって余り検査を促したりはせずにいてくれてるんだけど 今回遂に "最近 耳(聴こえ)はどうよ" なんて聞かれちゃって

自分では 若干聴こえにくくなったかなぁくらいなもんだけど夫は 最近聴こえ悪くない!? なんて言うくらいには悪くなってるっぽいけど 検査したくない心が勝っちゃって 適当に いやまぁ大丈夫です と答えたら

イヤホン使ってる?

って言われたんだよね  いや、使ってるよね 片道1時間半かかる通勤中ずっとつけてるよ、イヤホン。

あなたの場合は 将来全く聴こえなくなる可能性があるんだからイヤホン使っちゃダメよ 前も言ったでしょう  と酸っぱく言われて  ごめん 前言われたかどうかはちょっと覚えてない なんて言いながらしおらしくハイなんて答えたけど実はまだ使ってます

いやだって電車とかってめちゃくちゃ音が入り乱れてるじゃん?咳払い、クチャクチャ、喋り声、貧乏ゆすり、外の喧騒、指の関節鳴らす音…etc そういうごった返した音たちが聴こえるのが苦手で落ち着かなくなってしまうから常に 知ってる音楽を知ってる順番(もしくは1曲リピート)で聴き続けてたい イヤホン様々 

正直いつ聴こえなくなるかもわかんないし 本当に聴こえなくなるのか先生の杞憂か(おい)も分からないし そのために毎日の通勤や移動時間を苦にしたくない って思ってそのいつかが来ることも覚悟の上なんだけど   その話をされてから  日々の楽しいこととか嬉しい細かいことに あ、これいつか もしかしたらすぐ 聴こえなくなるのかもしれない とか思ってちょっとセンチメンタルで

視覚 聴覚 嗅覚 味覚 触覚  って大事だよね 失わなくて済むなら失いたくないよね

あーあーまだ朝は遠そうだなぁ

 

刹那

 

仕事終わり、上長と俯きがちに今日の後悔やら反省やらをぼそぼそ呟きながら駅までの道を歩き 反対方面に帰る私は踏切によって分断されたホームを目指して 挨拶を交わした刹那  彼は高い身長に似合わず少し控えめに目線を低く話しかけてきた

突然ごめんね、英語話せる?

あ、ナンパかな?そう思いつつも踏切が開くまで時間があり逃げる術はなかった   いや、彼の控えめなその姿勢に影響されたのかそもそも逃げようと思ってはいなかった  久しぶりに聞いた日常会話の英語や彼の発音の心地良さに絆されてしまったのかもしれない

話せるよ どうしたの?

それは良かった、僕こっちで友達がいなくて最近寂しくてさ…誰か英語が話せる人と話がしたかったんだ   もし良かったらあのコンビニで何か買うし 少しの時間だから話せないかな

在り来りなナンパ文句なのかもしれないけど 彼の装う雰囲気は少しセンチメンタルな感じで 即答で断ることは出来なかった

答えを迷うタイミングでちょうど電車が横切って不思議な緊張感は和らいで 冷静な頭で明日も朝から仕事で今からはちょっとな、とNOの答えが出たところで  ごめんね、急いで家に帰らないと行けないから無理  ってこれまた在り来りな断り方で断った

彼は少しだけだから、なんて追い縋ることもなく 踏切が開くのに合わせて

大丈夫 気にしないで ありがとう  

と踏切の向こうにあった”あのコンビニ”には向かわず 来た道を少し俯いて去っていった

 

時間にしたら本当に1、2分の事だったけれど 彼と別れてしばらくは何となく高揚した気分で  でもだんだんと 凄くもったいないことをしたのかもしれないという後悔に苛まれて  いつもなら寝て過ごすだけの帰りの電車内で必死にここに綴っている

毎日 仕事に行っては帰り その日の仕事の反省や次の日の仕事を心配し また仕事に行く 6連勤 1日休み 7連勤の中で ”明日も仕事だから” という理由で断った

もしちょうど答える時に電車が通って一瞬の沈黙が無ければ YESと答えていたかもしれない

それくらいに魅力的だった  彼はきっと私の知らない世界について語ってくれただろうし 背中に背負うバイオリンか ウクレレか の存在も気になった

 

あの時もしYESと答えていれば

 

何かが変わったかもしれない  世界が広がったのかもしれない  踏切が上がったあの時私は何かが変わるチャンスを失ったのかもしれない

でもきっと私はもう一度あの時に戻っても やはり後ろ髪を引かれながら ごめんね と言っていたと思う

今日も仕事でとても疲れたし 明日も仕事なのだ  彼と話そうが話さまいが明日の仕事はなくならない  少し自分に言い聞かせながら顔を上げると電車は目的の駅に着いていた

 

 

野球の一般常識 義務教育…?

 

朝の5時 そろそろ夜明けかなとリビングのカーテンを開けるもまだ空はずっと奥がやっと明るくなってきたところで 寝れそうもない私はお気に入りのマグカップでホットミルクを作ってそっとはてなブログを開いた

 

急に気温が下がったからか 上手く体温の調節が出来ないようでなんとなく寝るのが難しいこの時期

陽もだいぶ高く登り気温が上がった頃急激な眠気に襲われては 昼夜逆転 という文字が頭に浮かびつつ寝る日々

 

先日 プロ野球について少々教わった

教わった、と言っても普通の方々からすれば恐ろしく常識的なことだと思うので 初めての知識を得た幼児が嬉しそうに報告してるなぁというくらいの暖かい目で見て欲しい

赤ヘル、でお馴染みの県で10年程育った私は シーズン中は買い物に行けば応援歌が流れ シーズン終わりには お疲れ様 もしくは ありがとう セールなるものに家計を支えてもらっていたし 小学校時代には地元教育として球団設立の話や かの有名な樽募金などについて学んだりしたものだが如何せん自分が運動音痴なのも相まってか周りの同級生達ほど野球が好きにはならなかった

周りの子たちはというとそれはもう根っからのファンで 学校帰りに球場、スマホを持ち込み始めた高校時代にもなると休憩時間や授業中でも教師の目を掻い潜ってまで(もはや教師もノリノリの時もある)試合中継を眺める子もいたし 模試やら授業やらをサボってパレードに参加し夕方の地方番組にて顔が映り怒られる…なんてこともあった

私はと言うとお外でこれを言うと刺されてもおかしくないよ…?と忠告され、挙句俺はきみがそれを外で言ってファンの方々に刺されていてもちょっと助けられない、、とまで言われる始末なので色々察して欲しい

まず色が似たチームは同じ球団だと思っていた

そうするとセ・リーグ パ・リーグ合わせても6球団あるかしら…といったところか

青い球団多すぎない?

そもそもセ・リーグ  パ・リーグフォッサマグナらへんで 上と下に別れているものくらいに思っていたが福岡の球団はパ・リーグだという 難しいものだ

それぞれの球団には基本 運営会社なるものがあり本拠地は存在するわ、キャラクターはいるわでなかなか覚えるのが大変だった

先日 ガ〇トにて  プロ野球12球団の本拠地、運営会社、球団名を全て言えるようになるまで帰れまテン的な感じのスパルタ教育を受け 凄まじいスピードで糖分を摂取しながらなんとか合格を貰ったがあいにく既に6割程しか覚えてない やばいな

関東に来てからというものの何故かニュースではパ・リーグの試合結果しか伝えられないので知らない国の言葉のように流し見していたものだが この帰れまテン的教育を受けてからというもの あ!この球団!あ!これ!と世界が広がった  とりあえず色は近くても別の球団ということはわかったし 運営会社の名前で呼んだり動物の名前で呼んだりする違和感にも慣れてきた

少しでも知ってるものの情報を観るとなんだか勝手に親近感が湧き嬉しくなるのだから不思議なものだ

次また赤い球団を応援しに行くことがあれば 昔何度か連れて行ってもらった頃とは全く違う景色を見られるのではとワクワクしている

野球を好きな、色々と知識を持っている人と観に行くのはとても楽しそうなので是非私にスパルタ教育を施した彼とは野球観戦に行きたいものだ

もし行く機会があれば 増えた知識をここで嬉嬉として綴るだろうからその時はまた暖かい目で見てやって欲しい

 

ちなみにサッカーに至ってはサンフレッチェ以外のチームを知らない

……あぁ空が明るくなってきた そろそろ仕事の準備をしよう

傾く会社と私の未来

 

前記事でちょっと触れた 半年くらい寝かせてた記事、この頃の自分に少しくらい報われて欲しいので公開します  結構ヘビーです

 

↓↓↓2020.8

 

仕事を辞める決意をした

 

カフェレストランのオープニングスタッフ(正社員採用)として2月に面接を受け  3月には都内で研修がスタートした

じわじわと感じるコロナウイルスの波  3ヶ月程度が見込まれていた研修は 突如1ヶ月を経たずに休業という形で打ち切られた

というのも研修先は都内の駅ビルに入ったカフェ、休業要請が出るや否や即座に休業した

営業再開は未定だった

その後 「休業」を言い渡された私は正社員候補のためダブルワークも認められず ただひたすら残高が減っていくばかりの通帳を眺めては悶々と過ごした

 

5月の終わり頃やっと来た連絡、6月の半ばで開業予定なので6月の頭から予定を空けておいて欲しい

6月の半ばに向けて 顔合わせ、ちょっとした片付け等で2、3回お店に入った

社員研修という名の 高校受験の集団面接みたいなディスカッションもあった

講師を招いて2日に渡って行われたそれは 全体の意識を統一するのに適していたと思うし 実感が全く無かった私には  このお店が目指していく形やスタッフ達との相性を見るのにとても役立ったと思った

あんな形だけのものが何の意味もなさない事を知らなかった私は 相当に甘い世間知らずだった

研修も終え 進む準備 食材が届き 備品も揃った

士気高く迎えた開店日 目標金額は100万と高らかに宣言した  ケーキは1000個用意され ランチメニューはおよそ80食分以上はあっただろうか

人が来ない コロナの影響なのか オープンへの周知の低さなのか

当日は20万行ったかどうか

その後も雲行きは怪しく 晴れることは無かった

上層部が毎日のように来てお客様がいる横を陣取り会議を開いた

社員やバイトたちに強く当たり  溜まっていく不満

日々 スタッフたちから聞く愚痴

毎日更衣室で次に誰が辞めるかという話を聞いた

明るい話はなかった

次を見つけてから辞める人、とりあえず”やってられない!”と辞める人…時期は違えど1ヶ月経つ頃には

ついにホールスタッフが大学生バイト2人(週1~2  6時間)になった

全ポジション何人も辞めた 社員は当初の半分になった

人件費を削りたい上、読めない戦況 弱い戦力の中余裕が欲しい現場、容赦なく削られる人件費

突如全員一斉退勤を言い渡された日もあった

店長は毎日オープンラスト 死んでいく顔色 支離滅裂な言動が増えた 正直怖かった

あの研修で見たキラキラしたお店の未来は もう面影すらなかった

 

料理長しか作れないバスタ料理 ファミレスとは違ってゆで汁の塩加減、パスタソースの味付けに汁量、ゆで時間と盛りつけから提供までの兼ね合いを含めた計算…知識と技術が必要だった マニュアルはないも同然 信じられるのは自分の舌 

試作に試作を重ね 家でも何度も作った

何店舗かを巡ったりヘルプで来る料理長の味を食べたりして研究もした

オイルパスタは本当に難しかった

店舗(料理長)ごとに味が違った

ファミレスで育った私には全店舗いつでも同じ味が基本だった

でもそれがこの店の売りだと思っていた

 

開店前日料理長が1度全てのメニューを作って見せた

私は 料理長が キッチンスタッフがお客様に提供する前に試験のような形をとると思っていた

全てのメニューをそれぞれに作らせ 評価をするような そんな試験

このレベルならお客様に出していい、これを店の味と言っていい、そんな証明のようなものがあると思っていたが無かった

だが開店してすぐに何故か料理長は厨房に立たなくなった

任されたのは  コロナの影響もあり研修を受けていない社員候補A、B、私と同じ時期に入社し 1ヶ月ほど研修を受けたCと私。 Bはほぼ未経験。

パスタ場とサラダ場に分けられる厨房で 中枢となるパスタ場に立ったのはAだった

Aのパスタには見ているだけでもムラが多く目立ち この店の味を知らない彼に何故突如全てを任せたのか私にはわからなかった

彼が料理長に味を見て貰っているところを見たことがない

私やCは積極的に味を見てもらったし 講評も貰うように気を使っていた

Aが休みの日 自然とCがパスタ場に立つようになった

シフトが組まれてくると更に差がわかるようになった

AとCはロングシフト、Bと私は開け作業か締め作業要員で基本的にはサラダ場(補助)の役割だった

パスタ場に立つのは AかC  それがありありと見えるシフト

私がパスタ場に入るのは AかCの休憩時間だけだった

当時 社員候補(研修段階)だった私たちの給料は時給だ

開店した初月の給料(時間数) これだけみても A、Cと B、私の差は歴然だった   大体A、Cの3分の2が私たちの給料になる

その後の対応も AとCさえ残れば他の3人は辞めてもいい、と受け取れるようなものばかりで

主要業務である発注、変更点などの指示、シフト作り…etc.  任されるのはAとCだけで

私の頭上を超えて AやC指示が出されたり 何かを質問されたりするのが当たり前になってきた頃  社員登用の話が上がった

キッチンの社員候補ひとりひとりが料理長と面談し社員になるか否かを聞かれる

否=退社である

それぞれに提示された月給 私とAでは7万の差があった Bと私の月給は同じだ

176.5時間 という最低労働時間数が提示された

これを下回ると減給である ちなみに+30時間は見なし残業(つまり残業代が出ない)

そして新店舗人件費削減の関係で   私とBは新店舗のスタッフとして雇われたにも関わらず  何件かの店舗のヘルプをしながら新店舗にもヘルプに来る、という完全なる穴埋め要員という告知がされた

だが この後Aが社員登用を辞退し 退職の意を示したことによって更に状況は変化した

穴埋め要員は私だけになり BとCが新店舗を基本2人で回し 彼らの休日のヘルプ要員として私が赴くことになった

更に数日後 私は完全に別店舗に異動することが決まった

それを知ったのはCからの情報で その日中に新店舗にあった私物は全て撤去することを求められた

何故 私が異動に選ばれたのか 何故給料にこれほどの差があるのか 4人とも同期で 実力的にもCと私に差はない   何故、何故、という思いは誰にも相談出来なかった

 

私の異動と時期を同じくしてメニューが変更になった

パスタメニューからロングパスタは消えうせ誰でも作れる簡易メニューになった

当初から売上の悪いキッチンは非常に敵視されていて   入れ代わり立ち代わり来る上層部から何度 キッチンは必要ない と言われたか分からない

あぁついにか、と思った  ついにキッチンスタッフの存在意義は無くなったか、と

 

異動先の店舗では私はキッチンに立つことは無かった

ドリンク作りが8割の 忙しい時限定サラダ場補助要員

会社支給のコックコートが嫌に虚しかった

新店舗では人件費削減の為削られまくったシフトで当たり前の様に半ホールと化していたキッチンスタッフだったが 異動先の店舗でも全スタッフ全ポジションを目指した取り組みがされ始めており  ホール責任者の店長がキッチンにてパスタを習い、キッチンスタッフの私がホールに出ていくような日々

ドリンクメニューはバリスタ資格を持った子や 何年もバリスタとして経験を積んできた子達がやっていたポジションである

配属当日 突然 「30分で全て覚えてワンオペして」と言われ  一通りを ”知った”  だけの存在に何ができるというのか

異動先でどのポジションをやるように言われるか分からないな、と思っていた私は   3月に軽くやり方を教わっていたものを予習しておいたので覚えは早かった

だが技術は違う話だと思う

ラテ等に使われるミルクの泡  ”音” で教えられるその作り方が私には分からなかった

そもそも体質的にコーヒーの類が飲めず 香りの強い紅茶は苦手で飲めない私からすると 本気で未知のものを作っていて ぶっつけ本番でお客様に提供するこもに深い拒絶感があった

それでも仕事なのでやらなければならない

手が空いたベテランスタッフに 泡立てを見せてもらい 合間を縫って練習し 3日目には10回に1回くらいは納得のいく見た目の泡立ちが出来るようになった

ラテアートが出来る人は本当に神だと思う

練習の時間はほとんど取れない 手が空いたらキッチンの仕込みに サラダ場補助、ランチのみで締め作業に入るキッチンの締め作業、常に溜まるディッシュ…とやることは山のようにあって日々アップアップしながら目まぐるしく働いているので 自分が納得できるまで練習、なんてことは出来ない

練習、というのはカフェオレである

カフェオレに泡は必要ない ミルクを温めるだけでいい(店舗自論)らしいので カフェオレのミルクを泡立てる事で練習していた

つまり練習相手はお客様である

いくら飲食業界が手技で習うより慣れろ 技術は見て盗めという教育方法だとしても  見る相手もいなく 自分対お客様の一本勝負の日々

一生懸命作ったオーダーを目の前で捨てられ 別のスタッフをわざわざホールから呼び 作らせる なんてことも何度もあった

その度に 冷たい視線を浴び お客様は待たせている

日々自分との戦いだった

 

 

私の目は上手く距離感が掴めない そしてとてつもなく視野が狭い

クレーンゲームのようなもの といえばわかりやすいだろうか

画面越しに世界を見て 手を操っているようなそういう感覚である

段差が把握出来ないので階段を補助なしで自由に降りられない

何かにぶつからずに歩くことが出来ない

これまで日常生活で困るのはその程度で特に仕事上でこのことを伝えることはしてこなかった

ホール業務をするようになってこれが如何に大きなハンデになるかを知った

ご案内の直後にお冷の提供をするのだが 透明なグラスに透明な水、ガラス張りのテーブルと来た

お冷の提供時に上手くコップをテーブルに置けず水が溢れた

ガンッと強く置いているように見えるだろう

すぐさま謝罪し 換えのお冷を片手でテーブルを触りながらそっと置くことで対処してきたが 百発百中で失敗する自分、いつお客様にぶっかけてしまうか分からない恐怖

オーダー提供時にも同じようなことは沢山あった

何せテーブルとの距離感が全く掴めないのである

思ったところにテーブルがない 何度こぼし何度物を落としただろうか

何故未だにクレームが入らないのかが不思議なくらい散々だった

これまで耳が聞こえないから、とホールに出るのを断っていた自分に対して さらに大きな壁が出来たことに非常に戸惑っていた

ホールに出ることはお店への迷惑になる、と思った

ケーキや料理、ドリンクが美味しくてこのお店いいな、と思ったお客様が もし私の接客のせいでもう二度と来ない となったらそれは会社の不利益に繋がる

そしてケーキ場は不可能だろうと悟った  ショーウィンドウを挟んでの対面やり取りは お客様が下を向くので全く聞こえないし  カップなどと違って触ることで確かめられないケーキの取り扱いは非常に難しい

 

せめてドリンクだけでも、と思いバリスタの社会人向け教室に通おうかとパンフレットを取り寄せた頃  料理長から事業の規模縮小の話をされた

多くの店舗でキッチンを無くす

もう料理は作れないと思って欲しいと言われた

次の月からは 籍はキッチンのまま   ホールやケーキ場、ドリンクシフトになるので最低労働時間数に届かないと思って欲しい(つまり減給である)と

会社の方針に賛同して続けるのか 辞めるのか 判断して欲しい、と。

 

非常に迷った  正直新店舗開店直後から辞めたいと思っていた

ここに書ききれないくらい酷い扱いをされた

理不尽なんて言葉じゃ言い表せられないような日々だった

毎日毎日仕事終わりの更衣室や帰り道に涙が止まらなくなった  時には休憩時間泣き通したことだってあった 辛かった 本当に辛かった

だが毎月の出費に対しての収入が少なすぎて 仕事を辞めて 次の仕事を探し、面接の日取りを決め、面接から結果連絡を待ち、採用後も研修の為 短時間労働 シフト数が入れるようになるまでの期間と その間の生活を続けられるお金がなかった

辞めなかったのではなく 常に 辞められなかったのだ

 

この機会を逃したらきっとやめられない、そう思った

ファミレス時代の社員(親友以上家族同然 夫公認の私の保護者)  (以下 y)についに泣きついた

雇ってくれないか、と

ファミレス時代の店舗ですら 愛人関係にあるのではないか と要らぬ噂をされて肩身の狭い思いをしたし 2度目の異動で店長代理となった彼の汚点になるような真似はしたくなかった

彼と次に一緒に仕事をする時は ”頑張ってる新人ちゃん” ではなく ”安心して背中を預けられる戦友” になりたい と今の職場で奮闘していたのだ  それがギリギリのところで毎回 職場から逃げ出さずに耐えてきた心の支えでもあった

私と彼の以前の勤め先の店舗は人手が余っているくらいと聞いていたが   彼の新異動先では人手が足りず 受け入れることは出来る、と言われた

 

料理長には 目や耳で実際とても業務に支障が出ており お客様へのご迷惑になってしまう、という旨について語り 続けるか迷っていることを話した

思いの外親身に聞いてもらえ 大変だね、と言われたし 結構深いところまで話し合えた気がした

でも 店長は違った

次月のシフトを提出するように言われ 私はまだ分からない、と答えた

これまで常にシフトに入れてもらえる日が少なく労働時間を選り好みできるような状態じゃなかったので  休みの希望を出したことは無かった

全日出勤可能  が私だった

訝しんだ店長になぜかと問い詰められ 続けるか迷っている旨を伝えた

その結果  (他の店とこの会社を)天秤にかけるような人はこの会社に必要ない、そんな人は働かせられない等言われ 散々理不尽に怒られ 嘲笑われた後に

で、どうするの  と聞かれたので 今回のシフトで辞めます と言うことになってしまい  迷っている から 辞めるへと急激に状況は変化した

 

アレルギーがあるのに料理人を目指すなんて、とこの会社に入って色んな人に言われた

実際 最初のメニューにはエビのパスタがあり それは味見が自分で出来なかったために 他人にわざわざ味見してもらったりしていたので そう詰りたくなる気持ちも分からなくもない

けれど 自分の努力でどうこうできない部分を否定されるのはとても苦しい

自分が出来る仕事、というと とてもやりたいこととはかけ離れてしまう 

まず接客業は全て不可だろう 事務作業が相場では

ただし機械クラッシャーで機械音痴の私にそれが向いているとは思えない  内職や工場のような単純労働作業くらいだろうか、わたしにできることは

これまで看護師、飲食、と常に対人を求めてきた

人のためになる仕事がしたい

飲食を選んだ理由は  外食という特別な時間に 作るという立場で携わって貢献したい  という思いだった

今の職場でこれが出来ているとは微塵も思えない

そんな自分が 自分の努力次第で出来るようになれる範囲 で やりたいことをやるというのには  ファミレスのような大手のチェーン展開しているお店で 簡易調理のみNO味見で完全マニュアル化されているキッチン業務が相応しいのではないか と思った

 

ファミレスでまたバイトから始めよう

仕事を覚えて出来ることを増やせば役職を付けていくことが出来る

シフトリーダー、スイングマネージャーを目指して頑張ろう

こう思うには相当な葛藤があったし 正社員を捨てることへの躊躇いや後悔のようなもの   ファミレス時代の社員に対しての申し訳なさなど まだ拭いきれてない部分もたくさんある

売り言葉に買い言葉みたいな中で決まった退職で益々居場所がなくなった職場で日々身を粉にして働くことへのストレスは際限なく  拒食症1歩手前まで行った

3日ほとんど何も食べれなかった 水分を摂るのもやっとだった

不眠になった 栄養ドリンクが1日2本ないと身体が持たなくなった

幸いカフェインが効きやすい体質なのと アミノ酸の興奮作用もあり 栄養ドリンクを飲んでしばらくは普通に動けるようになる

ただしその反動はなかなかに厳しい

締め作業の次の日が開け作業というきついシフトや ひと月の最低労働時間数が足りないから と削られる休憩時間、元々強くない身体に無理を強いる日々に精神と肉体両方がぶっ壊れる寸前という状態だ

もうとっくにぶっ壊れている気がする

いや、まだ起きて仕事にいけてるから大丈夫だ

高校の頃よりずっと楽だ

 

高校の頃は 明らかに自分が社会的弱者であり 不幸 であった

虐待を受け 母は親権を放棄し 元彼から散々な扱いをされた挙句捨てられ…私は不幸だ 辛いんだ 助けてくれ と言えるだけの条件が常に整っていた

けれど今は違う  結婚し、いざと言う時に頼れる味方yもいる 実の両親とも距離が離れ干渉が減った 好きな事を仕事にし  猫もいる   社会的に見ればとても幸福だろう この状況で 辛いんだ 助けて欲しい と言えなくなってしまった

愚痴を吐くことも減った  だって明らかに自分より理不尽で  自分より酷い扱いをされる社畜y の前でどんなに自分の会社での扱いを嘆いても暖簾に腕押しである

むしろ自分がただ非常に怠けているような気持ちになる

結局最後はこうやって頼るのだからどうしようもない人間だが 今ならやっと言える

 

この半年間 とてつもなく辛かった 日々辛さが増して本当に生きるのがしんどかった

 

入社して半年、3月〜7月の5ヶ月分の給料は総額27万だった

 

よく耐えた  よく我慢した  よく頑張った

 

私は全力で毎日仕事をし続けている 

 

解放まで  あと4日  37時間  

 

もう二度とオープニングスタッフはやらない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見て見ぬふりへの後悔

 

 

身近で突発的に起こった事故に対して即座に手を差し伸べられる人はどれだけいるだろうか

例えば 電車の急な運転停止でよく聞くこのアナウンス

「急病のお客様がいらした為 現在運転を停止しております。暫くお待ちください。」

急病、がどの程度かにもよるのかもしれないが 緊急ボタンを押すくらいだ かなり深刻なのではないだろうか

同じ車両に居合わせない限り私はただ無事を祈ることしか出来ないが 多分急いでいるとか心の余裕によっては早く早く、とイラついてしまうかもしれない

 

というのも先日 杖を使用している片足が不自由に見られる女性が同じ車両に居合わせた

別の方が席を譲り 譲った席まで誘導していたことから存在を認識した

その後 とても大きな駅で電車を降り、階段を下っていると 後ろから「キャッ」との叫び声があり直ぐに後ろがザワザワし始めた。

通勤時間の狭い階段、歩みを止めることは二次被害を起こしかねない チラチラと後ろを伺いつつも前に進んだ

ざっと見た様子によると先程の杖を使用している女性が階段を踏み外し 腰を打ちすぐには立ち上がれなかったらしい(私が階段を下りきった頃には立ち上がれて 残りの階段を下り始めていた)

直後 倒れた彼女の傍では何人かの女性が手を差し伸べ 声をかけていたが 私は混ざれなかった

あれから2週間ほど経つがまだ後悔している

階段の昇降の手助けなら付け焼刃程度ではあるが心得がある  すぐに駆け寄り 手助けが必要か、どうして欲しいのか尋ねればよかった

 

実は私も電車内で倒れ意識がなかったことがあり  たまたま乗り合わせていた方々に助けて貰ったのだ

昔から譲り合いについてはよくよく教えこまれていたし自発的に声をかけることが出来る方だったと思う 

けれど自分が助けて貰ってから 更に気をつけるようになった

緊急事態になる前に 何か手助け出来ることがあれば緊急事態そのものを防ぐことが出来るかもしれない

体調が悪そうな人に 席を譲ったり 少し様子をうかがったり…些細なことだけどそれが自分の受けた恩の返し方のような気がしている

先日 明らかに困っていた女性に声をかけられなかった私は その使命を違えたような、そんな感覚であって何となく同じ時間同じ車両を使う時にはつい姿を探してしまう

 

突発的に起こった事故、と書いたけれど それこそ目の前で倒れるくらいのことが起きなければ皆気づかないのではないだろうか

普段電車内での視線はスマホか 目を閉じてるか というような人ばかりでは  顔色が悪かったり 少し呼吸がおかしかったりする人がいても 倒れない限りは気づかないだろう

そこまで把握しようと思うとなかなか難しいところではある

ただ目の前でそれが起きた時 手を差し伸べられる人でありたいと思う

 

倒れたことしかり 普段から身体が強い方ではなく体調面では周りに散々迷惑をかけている自負があり ペットボトルの蓋すら自力で開けられない自分では体力面等さっぱり役には立たないだろうが

自分でも分からないくらい苦しかったりしんどい時に手を握って声をかけてくれた人の心強さを私は知っている

色んなところで色んな人に何度も助けて貰ってきた私だからこそ出来る何かがあるんじゃないか  と今日もまた同じ後悔を繰り返さないようにそっと周りに気を配る

暑くなってきた最近、車内(室内)と屋外での気温差で体調を崩す人が多く出てくると思います

これを読んでくれている方に   まず自分が倒れないことが第1優先、でももし困っている人がいれば手を差し伸べれる人であってほしいなと思います

 

 

 

今日も今日とて生きづらい

変化が苦手だ

 

変化、というとだいぶ抽象的だが 予定の変更や決まり事の変更というと分かりやすいだろうか

落ち着かない気持ちになったり 直したくなったり なにか堪えられない衝動的なもので とても気分のいいものでは無いから 苦手 という表現を使う 不安になるのだ  短時間で度重なると

自分で自分がコントロール出来なくなることもある

事前告知で防げることもある

例えば バスが時刻表通りに来なかったり いつも通る道が通れなかったり 約束の時間を過ぎても約束が果たされなかったり メニューの写真と違う配置の料理が提供されたり お店の内装が変わっていたり 漢字の書き順が違ったり こだわりがあるものの位置や形が変わっていたり 毎週やる番組が放送されなかったり……

決まりがあるもの全てのことに当てはまるわけではなく 割と限定的に苦手なことが多い気がする

自分でも不安に感じて初めて苦手だと気づくことが多い

逆に  髪を留めるピンに至っては洗面台のコップの中に入れる、という決まりがあるけれど いつもベッドやら 机の上やら 洗濯機の上、はたまたお風呂のボディタオルに挟んであったりする 全く記憶にない

そしてそれは特に気にならない   毎日のように無くした無くしたと騒いでは ちゃんと片付けろと怒られている 

 

変化が苦手だ、というと ちょっとめんどくさいやつだな と思うかもしれないが (実際自分でももう少し融通が効いて欲しいと思うこともある)  見方を変えると 変化して欲しくないものが変化しなければ とても安心するのである

 

頭の中は常に様々な考え事で混沌としている

曲が何曲か流れていたり 道行く人にコメントしていたり 次の予定に合わせて計算していたり 自分の歯を舐める感触 爪の形 痒み 目の開き具合 息遣いなどを気にしていたり 周りの人たちの会話(×複数)を聞き取っていたり…

狭い空間(脳内)に 大小様々な風船(考え事やそれに対する意識の比重の例え)が大きさを変えたり 数を変えたりしながら常にぎゅうぎゅうに詰まっているような感じである

変化が絶えない脳内で思考を常にフル稼働させているととても疲れる

その中に 絶対変わらないよ というものがあると安心するのだ

例えば 左右対称の模様であったり 時間の決まり(予定や約束)だったり 一定のリズムだったり この場所には必ずこれがあるだったり…

風車や水車、水槽の中で一定の量溜まるとパカッと泡が出るやつとか、振り子時計(秒針の音でもいい)とか そういうものはもうずっと見ていたくなる

心が乱れたり 落ち着きたくなった時には 一定のリズムで指をトントン打ち付けたり(貧乏ゆすりに近いかも?)  背中をトントン叩いてもらったり 他人の心臓の音を聞いたりするのがいい

感覚に同じリズムを刻むと強制的にそれに集中するので思考の比重が重くなるのだ

日常生活でのこだわりといえば  家から職場まで同じ道を通ったり、電車で同じ両数の同じ扉から乗り 同じ改札を使ったり、音楽アプリで同じ順番で流したり 1曲を延々と流し続けたり(順番が一緒だと全ての曲を合わせて1曲、みたいな捉え方になる)

一部のこだわりさえ常に不変であってくれればそれだけで落ち着くものだがなかなか上手くいかない

バスや電車は時刻のズレが頻発するし 人と会う約束はなかなか時間通りにいかない   ものの配置が変わっているとどこが変わっているか分からなくてもどうしようもなく気持ちが悪い  

仕事で言うと 急なシフトの変更であったり いる予定では無い人がいたり(修理業者の人とか 上司とか )  逆にいる予定の人が急な欠席でいなかったりとか  ものの配置や 仕事内容の変化など 変化だらけでとてもしんどい

何度も何度も繰り返すうちに 自分を納得させたり落ち着けたりすることは出来るようになってくるが ひどく不安になるのは避けられない

なんとも生きづらいものである

 

 

1曲を何度も何度も繰り返し聴いていると飽きた、と言われることから少し考えてみたので たどたどしい文にはなったが  なんとなくでも伝わって貰えると嬉しい

自分のこだわりを全て通すのが難しいのは分かっている

せめて人と会う約束の時間は守ろうな、、

 

 

私が高校に行けなくなった理由

鬱病と聞くとどんなイメージを持つだろうか

精神疾患、関わりたくない、精神が弱い人、怠けている人、怖い…兎に角いいイメージはないと思う

でも私がこの病気になって1番辛かったのは 信頼 を失ったことだった

鬱病の既往歴がある私を信頼することはこの社会ではとても難しいらしい

 

中学3年生 県で1番の進学校と謳われた高校への入学を目標に塾に籠りきりだった

苦しい家計に無理をいって通わせて貰った塾、家事と両立しつつも合格ラインギリギリの成績を何とかかんとか1点でも上げようと必死だった

優秀であることは母を笑顔にしたからだ

運動音痴でなんの取り柄もなかった私は頑張って中の上くらいの成績で 担任からはその高校はちょっと…なんて難色を示され、推薦は貰えないような子だったが 運がよかったのか功を奏したのか合格した高校で 期待に胸をふくらませていた

担任や塾の先生方はそれはもう喜んでくれた

母もおめでとうと喜んでくれていた

実際は合格発表の番号を見つけるとすぐ持病の手術をするために移動したので合格に浸る時間は無かったのだが

 

高校1年生の初夏 突然終わりを告げた母子家庭

あんなに苦労して入った学校で 間違いなく周りは自分より頭が良かった

ずっと憧れていた部活に入り 自分には難しい授業に食らいつき 友達に質問しまくり 行事に燃えていた

本当にこれから という時期だった

それからあっという間に 父方の祖父母宅での居候が決定し 肩身の狭い日々を送った

何でもない瞬間に突然泣き出したり 過去のトラウマ達を鮮明に思い出すトリガーが出来て苦しんだり 度重なる過呼吸の発作に怯えたりしていた

とても学校どころではない  だが進む授業  毎日の部活動  病院通いの日々  家でも学校でも取り繕った顔で過ごす日々に正直とても疲れていた

腕には消えない傷ができ 当時初めての彼氏となってくれた人にはもう文字に起こすのも恥ずかしいくらいに依存していたあの頃は それでもまだ鬱病ではなかった

 

父は何を思ったのか 急に父と母と3人で暮らすと言った それはもう決定事項で

3人での生活は付け焼き刃もいい所で 家族の形としてはとても異質だっただろう

父からの暴言  母との埋められない距離  みるみるうちに下がる成績  周りに迷惑をかけてばかりでとても続けられない と辞めた部活  著しく変わる生活で もう限界だった

 

そんな生活から1抜けると母が出ていくことを決めるより少し前 私はついに学校に行けなくなった

2年生になり 新しい友達とグループになるも 話題が合わずに上手く馴染めなかった私は 昼休憩の度に体育館の応援席の影に逃げていた

母子家庭なりに母と母娘よりは姉妹に近いような仲の良さで過ごしていた(私はそう思っていた)頃と比べて 幸せとは言えない真っ直ぐ立つことも難しい家庭環境では 彼女たちの日々に当たり前に存在していた親の愛というものがとてもとても羨ましくて妬ましかった

あ〜もぉお母さんこのプリント書いてって言ってたのに〜

私これ嫌いなのにお母さんお弁当に入れてくるんだよね

そんなありふれた会話に入るのに  「え〜めちゃくちゃ幸せだね〜」と返すのが正解ではないことくらいは分かっていた

 

朝身体が怠くて起き上がれない日々が増えた

飛び交う父の怒号  そんなこと言われても動かないのだとしか言えずに日々暴言を被っていた

学校の欠席連絡は親がしなければならない  これが1番キツかった

子供の私から電話しても怒られるのだ 事情を何も知らない先生達に もう何日も欠席が続いているわ、このままだと授業に追いつけないわよ、ほら頑張って来てみましょう、なんて言われたって行けるならとっくに行っているとしか思えず 泣きながら電話をしていた

緊急連絡先が母から父に変わり  父に担任から連絡が入りあっという間に話し合いという名の説教が始まる

食欲は落ち 夜は眠れず朝は動かない身体 這うように学校に行っても授業中が唯一の睡眠時間になってしまい居心地の悪さに耐えきれず保健室の常連となる

授業に追いつくため、と何とか通っていた塾にも行けない日が続き それらはどんどんと自分を追い詰めてきた

通学の電車で倒れて救急車騒ぎになったこともあった

命の危機だ、と駆け込んだ児童相談所では一生懸命一人で生きていく道を模索し駆け回ってくれたが 親や親戚の圧力によって簡単に押し潰された

 

母が家を出てすぐから 完全に起き上がれない日が増えた

ギンギンとした眼で 常に眠れず 排泄も食事すらも出来ずただベッドの上で連日タオルを濡らしていた

胃に何も入っていないのに吐き続け 体重は減り頬は痩けた

怒った父が部屋の扉を殴りあけてくることに怯え 人としての当たり前が出来ない情けない自分を恥じて ひたすら責められる事に耐え 生きてるのか死んでいるのかという日々

ある時 父に精神疾患用の病院に連れていかれ こいつはどこかおかしいんじゃないか と普段被りまくってる仮面はどうしたという喧騒で初対面の精神科医に向かっていく様に 恥ずかしいなんて感情はもう無く ただ怯えて震えるだけで 精神科医は気休め程度の薬を出した

その後この精神科とは1年以上の付き合いになるが 主治医は2度変わり 睡眠薬抗不安薬は増加の一途を辿るばかりで生活は何も向上しなかった

学校ではますます居場所が無くなり 進級に必要な単位がこのままでは足りない と担任との面談を繰り返す

夏でも震えるほど寒く 常にブランケットを2枚持って授業に参加し 体を起こすことがしんどく ブランケットを丸めて机とお腹の間に挟んで 溶けるように俯いて1時間の授業を終わるのを待つ日々

常に残りの単位を数えながらの授業に必死に耐え  テストは別室で名前を書くだけのような途中退出ばかり

精神科では入院による治療を薦められるも 入院=留年 の為に断り続けた

留年してしまえば もう1年父と2人で過ごすことが確定する

父は高校を卒業するまでだ、と言ったからだ

卒業して家を出る それしか自分が自分になるための道はないと分かっていた

同じクラスに事故による後遺症で学校に通うことが出来なくなった子がいた

同じようにあと一単位で留年という状況の中 彼女への周囲の対応と私への周囲の対応は雲泥の差で

あぁこれが精神疾患への周りの認識なのかと思った

彼女は自分達への周りの扱いの差に怒ってくれていたが  私は悔しさよりも諦めが勝った  卒業さえ出来れば周りの評価なんてもうどうでもいいと思っていた  こっちは生きる為に必死なんだ

 

受験の準備と同時進行で 上京先の住居を決めた

まだ11月だった  出ていく前の母に渡されたこれから先の全てのお金 というものを握りしめ そこから高校時代の生活費 受験費 遠征費 新居への引越し費や 入学金等々を計算しやりくりしていた   さながら一人暮らしである

私立は受験せず 国公立大学1本と専門学校を何校も受けた

センター試験はギリギリ7割と 大学の合格ラインは超えていたはずだったが前期も後期も不合格だった

絶対受かると思っていた専門学校も全て不合格だった

選んだ進路が看護だったからだ

看護業界で鬱病は受け入れられない 心が強い人ですらやっていくのが厳しい世界だ

鬱病という既往歴を隠して臨んだ学校ですら 欠席日数 早退日数の多さ 必要単位ギリギリの成績では信頼は得られない

 

受験は私にとって救世主だと思っていた

合格すれば家を出られて 自分の学びたいことを学べる場所で  人として生きられていない現状を変えることの出来る大きな一歩になる、と

何故鬱病になったか 今の病状 上京によって回復が見込めること この学校への熱い思い 目指す看護像 働きたい病院も決まっていた

どんなに説明しても 正面から挑んでも それらしく取り繕ったとしても 合格者一覧という紙に私の番号はなく焦るばかりで

なりたくてなった訳じゃない鬱病は 高校から、あの混沌とした家から、抜け出したい私の大きなしがらみで枷で どうすればいいのか分からず 目の前が真っ暗になった

 

それでも卒業するより早くに引越しを終え  卒業したその日に家を出て 早くから家賃を払っていた上京先の住居に移り住みひとり暮らしを始め

半年近くかけて夜寝て朝起きる生活が出来るようになってから 看護助手として働いた

看護助手として働いた経験と 同じ職場で働く看護師さんが学校への紹介を書いてくれて挑んだ受験、浪人1年目でも全ての学校が不合格だった

不合格を突きつけられる度に この社会に必要ない この世界で人として不合格 と言われているような気がして何とも耐え難い苦しさを味わった

 

人生の汚点 黒く黒く底の見えない闇の中 必死にもがいて生きてきたけれど 今もまだ努力に努力を重ね大学の合格を勝ち取り 通う同級生達に対しての劣等感は拭えない

大卒と高卒との差を日々感じている

あの高校で 私たちの代で 唯一の高卒なのではないだろうか

高校側からしても私は汚点だった

 

思えば高校は合格発表も卒業式も余韻に浸る暇なく3年を駆け抜けた日々だった

楽しい先生や高度な学びの中でやりたいことは沢山あった 大好きな先生もたくさんいた 授業だけじゃなく行事だって本当はもっと楽しみたかった 修学旅行だって行きたかった

志半ばで諦めた部活動 大好きな先輩たちのようになりたかった

 

高校は義務教育ではない

自分が学びたいと思い 自分で選び お金を払って通う場所である

高度で専門的な学びを得る為の基礎力をつける場所である

だが どんなに高い志を持っていても 色々な事情で思うように学校に通えない子はいる

その子たちに心無い言葉を放ったり 邪険に扱う前に少し考えてみて欲しい

彼らの姿は自分だったかもしれない 誰にでも起こりうることなのだ、ということを