私が高校に行けなくなった理由

鬱病と聞くとどんなイメージを持つだろうか

精神疾患、関わりたくない、精神が弱い人、怠けている人、怖い…兎に角いいイメージはないと思う

でも私がこの病気になって1番辛かったのは 信頼 を失ったことだった

鬱病の既往歴がある私を信頼することはこの社会ではとても難しいらしい

 

中学3年生 県で1番の進学校と謳われた高校への入学を目標に塾に籠りきりだった

苦しい家計に無理をいって通わせて貰った塾、家事と両立しつつも合格ラインギリギリの成績を何とかかんとか1点でも上げようと必死だった

優秀であることは母を笑顔にしたからだ

運動音痴でなんの取り柄もなかった私は頑張って中の上くらいの成績で 担任からはその高校はちょっと…なんて難色を示され、推薦は貰えないような子だったが 運がよかったのか功を奏したのか合格した高校で 期待に胸をふくらませていた

担任や塾の先生方はそれはもう喜んでくれた

母もおめでとうと喜んでくれていた

実際は合格発表の番号を見つけるとすぐ持病の手術をするために移動したので合格に浸る時間は無かったのだが

 

高校1年生の初夏 突然終わりを告げた母子家庭

あんなに苦労して入った学校で 間違いなく周りは自分より頭が良かった

ずっと憧れていた部活に入り 自分には難しい授業に食らいつき 友達に質問しまくり 行事に燃えていた

本当にこれから という時期だった

それからあっという間に 父方の祖父母宅での居候が決定し 肩身の狭い日々を送った

何でもない瞬間に突然泣き出したり 過去のトラウマ達を鮮明に思い出すトリガーが出来て苦しんだり 度重なる過呼吸の発作に怯えたりしていた

とても学校どころではない  だが進む授業  毎日の部活動  病院通いの日々  家でも学校でも取り繕った顔で過ごす日々に正直とても疲れていた

腕には消えない傷ができ 当時初めての彼氏となってくれた人にはもう文字に起こすのも恥ずかしいくらいに依存していたあの頃は それでもまだ鬱病ではなかった

 

父は何を思ったのか 急に父と母と3人で暮らすと言った それはもう決定事項で

3人での生活は付け焼き刃もいい所で 家族の形としてはとても異質だっただろう

父からの暴言  母との埋められない距離  みるみるうちに下がる成績  周りに迷惑をかけてばかりでとても続けられない と辞めた部活  著しく変わる生活で もう限界だった

 

そんな生活から1抜けると母が出ていくことを決めるより少し前 私はついに学校に行けなくなった

2年生になり 新しい友達とグループになるも 話題が合わずに上手く馴染めなかった私は 昼休憩の度に体育館の応援席の影に逃げていた

母子家庭なりに母と母娘よりは姉妹に近いような仲の良さで過ごしていた(私はそう思っていた)頃と比べて 幸せとは言えない真っ直ぐ立つことも難しい家庭環境では 彼女たちの日々に当たり前に存在していた親の愛というものがとてもとても羨ましくて妬ましかった

あ〜もぉお母さんこのプリント書いてって言ってたのに〜

私これ嫌いなのにお母さんお弁当に入れてくるんだよね

そんなありふれた会話に入るのに  「え〜めちゃくちゃ幸せだね〜」と返すのが正解ではないことくらいは分かっていた

 

朝身体が怠くて起き上がれない日々が増えた

飛び交う父の怒号  そんなこと言われても動かないのだとしか言えずに日々暴言を被っていた

学校の欠席連絡は親がしなければならない  これが1番キツかった

子供の私から電話しても怒られるのだ 事情を何も知らない先生達に もう何日も欠席が続いているわ、このままだと授業に追いつけないわよ、ほら頑張って来てみましょう、なんて言われたって行けるならとっくに行っているとしか思えず 泣きながら電話をしていた

緊急連絡先が母から父に変わり  父に担任から連絡が入りあっという間に話し合いという名の説教が始まる

食欲は落ち 夜は眠れず朝は動かない身体 這うように学校に行っても授業中が唯一の睡眠時間になってしまい居心地の悪さに耐えきれず保健室の常連となる

授業に追いつくため、と何とか通っていた塾にも行けない日が続き それらはどんどんと自分を追い詰めてきた

通学の電車で倒れて救急車騒ぎになったこともあった

命の危機だ、と駆け込んだ児童相談所では一生懸命一人で生きていく道を模索し駆け回ってくれたが 親や親戚の圧力によって簡単に押し潰された

 

母が家を出てすぐから 完全に起き上がれない日が増えた

ギンギンとした眼で 常に眠れず 排泄も食事すらも出来ずただベッドの上で連日タオルを濡らしていた

胃に何も入っていないのに吐き続け 体重は減り頬は痩けた

怒った父が部屋の扉を殴りあけてくることに怯え 人としての当たり前が出来ない情けない自分を恥じて ひたすら責められる事に耐え 生きてるのか死んでいるのかという日々

ある時 父に精神疾患用の病院に連れていかれ こいつはどこかおかしいんじゃないか と普段被りまくってる仮面はどうしたという喧騒で初対面の精神科医に向かっていく様に 恥ずかしいなんて感情はもう無く ただ怯えて震えるだけで 精神科医は気休め程度の薬を出した

その後この精神科とは1年以上の付き合いになるが 主治医は2度変わり 睡眠薬抗不安薬は増加の一途を辿るばかりで生活は何も向上しなかった

学校ではますます居場所が無くなり 進級に必要な単位がこのままでは足りない と担任との面談を繰り返す

夏でも震えるほど寒く 常にブランケットを2枚持って授業に参加し 体を起こすことがしんどく ブランケットを丸めて机とお腹の間に挟んで 溶けるように俯いて1時間の授業を終わるのを待つ日々

常に残りの単位を数えながらの授業に必死に耐え  テストは別室で名前を書くだけのような途中退出ばかり

精神科では入院による治療を薦められるも 入院=留年 の為に断り続けた

留年してしまえば もう1年父と2人で過ごすことが確定する

父は高校を卒業するまでだ、と言ったからだ

卒業して家を出る それしか自分が自分になるための道はないと分かっていた

同じクラスに事故による後遺症で学校に通うことが出来なくなった子がいた

同じようにあと一単位で留年という状況の中 彼女への周囲の対応と私への周囲の対応は雲泥の差で

あぁこれが精神疾患への周りの認識なのかと思った

彼女は自分達への周りの扱いの差に怒ってくれていたが  私は悔しさよりも諦めが勝った  卒業さえ出来れば周りの評価なんてもうどうでもいいと思っていた  こっちは生きる為に必死なんだ

 

受験の準備と同時進行で 上京先の住居を決めた

まだ11月だった  出ていく前の母に渡されたこれから先の全てのお金 というものを握りしめ そこから高校時代の生活費 受験費 遠征費 新居への引越し費や 入学金等々を計算しやりくりしていた   さながら一人暮らしである

私立は受験せず 国公立大学1本と専門学校を何校も受けた

センター試験はギリギリ7割と 大学の合格ラインは超えていたはずだったが前期も後期も不合格だった

絶対受かると思っていた専門学校も全て不合格だった

選んだ進路が看護だったからだ

看護業界で鬱病は受け入れられない 心が強い人ですらやっていくのが厳しい世界だ

鬱病という既往歴を隠して臨んだ学校ですら 欠席日数 早退日数の多さ 必要単位ギリギリの成績では信頼は得られない

 

受験は私にとって救世主だと思っていた

合格すれば家を出られて 自分の学びたいことを学べる場所で  人として生きられていない現状を変えることの出来る大きな一歩になる、と

何故鬱病になったか 今の病状 上京によって回復が見込めること この学校への熱い思い 目指す看護像 働きたい病院も決まっていた

どんなに説明しても 正面から挑んでも それらしく取り繕ったとしても 合格者一覧という紙に私の番号はなく焦るばかりで

なりたくてなった訳じゃない鬱病は 高校から、あの混沌とした家から、抜け出したい私の大きなしがらみで枷で どうすればいいのか分からず 目の前が真っ暗になった

 

それでも卒業するより早くに引越しを終え  卒業したその日に家を出て 早くから家賃を払っていた上京先の住居に移り住みひとり暮らしを始め

半年近くかけて夜寝て朝起きる生活が出来るようになってから 看護助手として働いた

看護助手として働いた経験と 同じ職場で働く看護師さんが学校への紹介を書いてくれて挑んだ受験、浪人1年目でも全ての学校が不合格だった

不合格を突きつけられる度に この社会に必要ない この世界で人として不合格 と言われているような気がして何とも耐え難い苦しさを味わった

 

人生の汚点 黒く黒く底の見えない闇の中 必死にもがいて生きてきたけれど 今もまだ努力に努力を重ね大学の合格を勝ち取り 通う同級生達に対しての劣等感は拭えない

大卒と高卒との差を日々感じている

あの高校で 私たちの代で 唯一の高卒なのではないだろうか

高校側からしても私は汚点だった

 

思えば高校は合格発表も卒業式も余韻に浸る暇なく3年を駆け抜けた日々だった

楽しい先生や高度な学びの中でやりたいことは沢山あった 大好きな先生もたくさんいた 授業だけじゃなく行事だって本当はもっと楽しみたかった 修学旅行だって行きたかった

志半ばで諦めた部活動 大好きな先輩たちのようになりたかった

 

高校は義務教育ではない

自分が学びたいと思い 自分で選び お金を払って通う場所である

高度で専門的な学びを得る為の基礎力をつける場所である

だが どんなに高い志を持っていても 色々な事情で思うように学校に通えない子はいる

その子たちに心無い言葉を放ったり 邪険に扱う前に少し考えてみて欲しい

彼らの姿は自分だったかもしれない 誰にでも起こりうることなのだ、ということを